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本項では、福岡藩領域の台場(だいば)〔当時、(石火矢)台場・砲台が混用されていたが、ここでは記述の統一を図り、「台場」とした。なお、薩英戦争時の記事では、fortとなっている。〕について述べる。 台場とは、防禦の目的をもって大砲〔当時は一般に「石火矢」と呼称〕を据え付けるための構造物を指す。海岸や河岸の台地など、海防上枢要の地に置かれたものが多い〔『新装版 日本城郭辞典』p.181〕。初期の台場として長崎の台場が知られるが、これは承応3年(1654年)に初めて築造されたものである〔『佐賀大学経済論集』第35巻第4号p.219〕。その後200年の時を経、ペリーが浦賀に来航したことで幕府・諸藩の海防意識が高まり、攘夷思想の影響もあいまって日本各地で台場が築造されていった。 福岡藩が関わった台場には長崎警備のための台場も含まれるが、ここでは幕末に築造された福岡藩領域の台場について述べる。 ==築造の経緯== 2度目のペリー来航ののち、安政元年(1854年)8月1日、福岡藩は海岸枢要の地、およそ10か所に台場を建設する許可を幕府に願い出た〔『新訂黒田家譜』第7巻上p.229〕。実地検分は安政2年(1855年)より始まり〔『見聞略記』p.131〕、安政3年(1856年)には少なくとも一部が完成したと見え、3ヶ所の台場に大砲17門を積みまわした記事が残る〔『見聞略記』p.83〕。万延元年(1860年)には志賀島・能古島の台場が完成〔『見聞略記』p.105〕、文久元年)1861年)4月12日には、志賀島・能古島・荒戸山に大砲が設置された〔『新訂黒田家譜』第7巻上p.283〕。その後、攘夷運動の高まりとともに諸藩で台場築造の動きが加速、福岡藩でも領内各所に台場が設けられ、異国船来襲に備えている。台場が置かれたのは主に、洞海湾の入口、遠賀川河口、そして福岡・博多を守る枢要の地で、その築造にあたっては海底の測量も行ったという〔『新訂黒田家譜』第6巻上p.63〕。また台場の築造工事と並行して、能古島・志賀島間(約2キロメートル)に大造筏を組並べて海路を塞ぐことが計画され、筏は文久3年(1863年)冬までに完成、有事の際にはいつでも設置できるよう、格納されていた〔『見聞略記』pp.141-42〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「台場 (福岡藩)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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